2021年10月3日(日)
【地図】
■鹿骨(ししぼね)って地名
「鹿骨」と書いて「ししぼね」と読みます。
鹿骨東小学校の傍らにひっそりとたたずむ小さな神社。小さな神社ですが、この地の名前「鹿骨」の由来となった神社です。
鹿見塚神社です。
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)の杖として仕えていた神鹿がこの地で亡くなったことを伝える「鹿見塚の碑」です。
■春日大社への道すがら神鹿が急病で亡くなった
口碑によると
「この鹿見塚のあるあたりは、昔から鹿骨発祥の地といわれています。伝説によると、戦国時代のころ、興亡のはげしい世の中を離れ、安住の地を求めて、石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓しました。ある日のこと、日頃尊崇している鹿島大神が常陸(茨城)から大和(奈良)に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられています。
昭和四十二年八月、氏子中によって「鹿骨発祥の地・鹿見塚」の碑が建てられています。
台座はコンクリート三段組で高さ九十八センチメートル、碑石は高さ八十一センチメートル、幅五十二センチメートル、厚さが十三センチメートルあります。 現在の鹿見塚神社は昭和四十八年に再建築されました。
奈良時代と戦国時代、時代がかなり飛んでますが、まあ、気にしない。
奈良時代、中国や朝鮮の脅威から、自国を守護するために、東国の要として建立された鹿島神宮、香取神宮の祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)を春日大社に勧請しました。
「武甕槌命は、神護景雲(じんごけいうん)元年(767年)6月21日、鹿島から白鹿に乗って(鹿を引き連れて)出立し、一年ほどかけて、神護景雲2年(768)に奈良の御蓋山(みかさやま/春日大社)に至った(鎮座された)とされ、春日大社の社司の租、中臣時風(なかとみのときふう)と中臣秀行(ひでつら)がそれに随ったとのことです。」(春日大社の縁起説話)
春日大社の縁起にもあるように、勧請のために鹿島神宮から春日大社まで、一年かけて移動したんですね。すごい隊列がこの地を通過したことでしょう。
神鹿の出来事を通して、この地が大和国との繋がりがあることを示しています。下総を中心に大和国との繋がりを示すたくさんの伝承があります。(一つ一つ紐解いていきます。)
創建については定かではありません。明治までは「五社神明社」と言われていたようですが、神鹿の出来事を奇縁として、鹿島神社と名付けたようです。
境内にも神鹿の像が設置されています。
「ししぼね」...ちょっと地名にしては奇異な感じがして、初めて聞いたときは「ナニコレ」と笑ってしまいましたが、調べてみれば、ちゃんとした謂れがあって、武甕槌命のお供をして急病で倒れた神鹿を村人が、塚を築いて葬った地であったとは...。
神様が通ったことを証明する出来事だったのですね。
ステキな地名だと思います。
■ほかにも立ち寄った神社がある
ついでですが、春日大社に到着する前に、もう一か所立ち寄ったとされる神社があります。
立木神社の由緒書によると
「立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の称徳天皇(しょうとくてんのう)(第48代)神護景雲元年(じんごけいうんがんねん)(767年)のこと、御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。「この木が生え付くならば吾永く大和国(やまとのくに)(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。」
武甕槌命が持っていた柿の鞭を社殿の近くに刺したところ、根付いて柿の木になったとのことです。それが、神社の名の由来とか。
日本の神話や伝承は調べてみると、けっこう繋がっていて面白い。
往復20kmの探索でした。
江戸川サイクリングロード走って気持ちよかった!!