2021年12月31日(金)(2)
■本日、2度目の「輪行」
引き続き、千葉ニュータウン中央駅から成田湯川駅まで「輪行」です。
目的地は吾妻神社(成田)。
■吾妻神社(成田)
日本武尊の妻、弟橘姫を祀る神社です。
吾妻神社の由来の看板の文字をおこします。
「吾妻神社の由来
吾妻神社は、第十二代景行天皇の皇子(みこ)である日本武尊と妃の弟橘姫の二神を祭神としています。日本武尊が東征の折り、ここ下総に至り、印波湖(いんばのうみ)(印旛沼)を渡って北上し常陸に軍団を進めるとき、かつて、相模の走水から対岸の上総(かみつふさ)へ渡る際に、波が荒れて船を進めることができませんでした。その時、妃の弟橘姫が、海神の怒りを鎮めようと自ら身を投じて海難を救いました。その健気な姫の面影を偲び、尊は、この地にも塚を築いて遺品をを納め、祠を建てて姫を祀ったのがこの神社の創めと伝えられています。また、無事に上総の地に着いた尊は、姫が身を投げた海辺に立ち「君さらず袖しがらみに立つ浪の その面影を見るぞ悲しき」という歌を詠み、その歌が地名の由来になったという木更津市にも、姫の故事に因んだ本宮とも言うべき吾妻神社があります。
時を経て、大正の初期に塚の周辺も荒れ、塚上にあった祠も損壊したため、氏子らの協力を得て塚を築き、お宮を新たに建てて日本武尊を合祀しました。以来、夫婦和合、家運繁昌の神さまとして崇敬をあつめ、近郷近在からの参詣客が年ごとに増えました。古老の話によると、縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が立ち並び大層賑わったといいます。
日本武尊は、大和政権による国内統一に献身した古代における伝説上の勇者としてよく知られており、数多くの物語に登場します。神社の西側にある古墳は天王塚というる前方後円墳ですが、この地域一帯は、昔から公津が原とよばれ大小様々な古墳がたくさんありましたが現在は、四十基が千葉県指定史跡として保存されています。
神社の北方には、昭和三十七年、東日本で初めて発見された八代玉作遺跡(やつしろたまつくりいせき)があり、成田ニュータウン内の発掘調査成果と併せて、この地域が吾妻神社の由来を裏付けるように大和政権による東国進出の道筋であったと言うことができます。
この神社の由来には重要なことが書かれていました。
日本武尊が印旛沼を北上して、常陸の国へ行ったということです。
この神社を見つけるまで、印旛沼を渡ったという証拠が見つかりませんでした。
そのことが、由来にズバリと書いてあったのです。
その後、船尾の伝承が見つかった。
また、走水で弟橘姫がいのちを掛けて守った船を、印旛沼に入るにあたって日本武尊は諦めることができたのか。
おいらもずいぶん考えた。印旛沼に大きな軍船を運ぶには距離がありすぎる。
新たに軍船を印旛沼で調達した方がよいのであろう。
船との別れは弟橘姫との二度目の別れに他ならない。それが、再度の祀りにつながったのだろうか。
この後、印旛沼と繋がっているであろう香取の海に出て、軍船は常陸の国へ向かった。
公津には古墳群があって、それらは前方後円墳。前方後円墳は大和朝廷の象徴。
天王塚は吾妻神社のとなりに存在する。この地域が大和政権との繋がりが深いことが伺える。
昔の印旛沼の状態を再現してみた。あくまでも軍船が通ったとされる経路を推測するために作ったので、根拠のある地図ではない。
■帰りは京成成田駅から
自転車(1)と(2)で28km