2022年11月6日(日)
神社名の冠に「式内社」とか「延喜式内」とか書かれている神社があるのを知っていますか。
「延喜式神名帳」というものが、平安時代に後醍醐天皇により編纂されました。当時の官社の一覧で国郡別に羅列されています。これに羅列されている神社が「式内社」と呼ばれています。(延喜式神名帳 - Wikipediaより)
つまり、「式内社」であれば、平安以前から存在する由緒正しい神社である証明になります。
下総国葛餝郡には二座の神社が記述されています。
・茂侶神社
・意富比神社
意富比神社は船橋の人ならよくご存じの船橋大神宮と呼ばれている神社のことです。
当然、一つしかありません。
しかし、茂侶神社は三つ存在するんです。(船橋市、松戸市、流山市)
本来は一つであるはずの神社が複数存在する場合、そのような神社のことを「論社」と呼んでいます。
今日は真実の茂侶神社を探しに行きたいと思います。
■茂侶神社(船橋市)
意富比神社の近く(歩いて10分程のところ)に茂侶神社があります。
この神社が真実の茂侶神社ではないかという理由として、同じ「式内社」である意富比神社の近くに存在していることが理由としてあげられています。
この神社は住宅街の中にあるので、うっかりすると見つけられずに通り過ぎてしまいます。
邸宅と邸宅の間にひっそりと参道があります。通路が通っているだけで一見抜け道のように見えます。この先に神社があるとは分かりません。
「延喜式内茂呂神社」と書かれています。
非常に参道が長いです。木花開耶姫をお祀りしているので、同じ神様とお祀りしている浅間神社と同じ造りをしています。
茂侶神社縁起には下記のように書かれています。
茂侶神社縁起
当茂侶神社の起原は古く延喜式神名帳に
下総国葛飾郡二座
茂侶神社 意富比神社
とあり今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されて居たのであります
愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り古来縁結び安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました 攝社として祭神の姉命磐長姫を祀り小御嶽神社と申して居ります
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日下総國従五位下茂侶神に従五位上を授くとありまた陽成天皇の元慶三年九月二十五日下総國正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります
西北にある湧池は天の真名井と称する当社の神泉であります
江戸名所図絵によれば年の始に隔年この神域より御営に根引の若松を撰び上納する旧例とすとあります
古来例祭は旧暦六月一日に行う
■江戸川沿いを新松戸に向かいます
一旦、妙典橋に戻って、江戸川サイクリングロードを新松戸に向かいます。
旧行徳橋の水門です。今回は河原から眺めてみました。
冷たい空気で澄んでいるのか、スカイツリーがキレイに見えます。
「アイ・リンクタウン」も今日は鮮やかに見えます。
■茂侶神社(松戸市)
千葉県松戸市小金原5-28
建立された経緯はわかりませんが、江戸時代に水戸光圀公がここにお鷹場を持っていて、この神社が社格の高い神社であることを知って、代々、水戸家から祭典料や営繕料を給わっていたそうです。大物主命を祀っていることから、流山の茂侶神社と何らかの関係があったかも知れません。距離も近いしね。
上記の石碑には以下のようなことが刻まれています。
抑々當神社は今から凡そ壹千年前古代平安時代の中期に完成した延喜式神名帳(九二七) によれば下總国葛飾郡内二社中の一社で正五位の格式社であり祭神は大物主命である 中世室町時代寛正二年(一四六一)二月にはこの地に本拠を置いた戦国大名高城下野守胤 吉が當社の本殿及び拝殿を再建し當地方の鎮守とし武運長久の祈願社としていた近世 江戸時代の初期に至り小金西新田(現小金原二・三・六・七町目の一部分)に在った水戸家所領 八拾参万平方米(約八拾参町歩)に黄門義公お鷹場の役所を設け領地の南北に表裏二門を 建て放鷹を行っていたが偶々當社が正五位の格式社であることを知り寛文四年(一六六 四)四月家臣板野伊藤の両名を遣し本殿拝殿の修復を行い義公自ら茂侶社と書した扁額 を献じ水戸家より代々祭典料を営繕料が給せられたまた現在の社名額は明治拾六癸未 年二月七日明治大帝の御弟君有栖川宮一品幟仁親王の御親筆でありこの年代には社格 が高木村々社となり爾来大祭(十月十七日)の祭典は村費により賄われ祭禮は全村挙げて の盛儀となり司祭の神官は代々友野氏が担当していたその頃の神域参道百米に及ぶ両 側には樹齢参百年以上の老樹鬱蒼と生い茂り昼なお暗く特に本殿裏境内には七・八百年 を超す老杉数拾本が天を摩して聳え参詣者をして自ずと襟を正さしめる神威を四方に 光放っていた然るに昭和参拾八年日本住宅公団の小金原団地造成事業の施行により 境内は縮小され老樹も多く枯損し現存の老木は椎六本と参道入口に樹齢凡そ五百年の 老松を残すのみとなり神域の景観は昔日の森厳さを失うに至ったよって茲に会員一同 相い議し神域を整備して御神域の益々の隆盛ならむことを祈念し奉り併せて社史を後世 に伝へるため碑に刻して永く御神徳の弥栄を希うものである
■茂侶神社(流山市)
千葉県流山市三輪野山619
ここが一番、本物ポイです。
奈良時代もしくは平安時代に大和から部族の移動記録があったことから、奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)に関係する部族が移り住み、分霊をして祀ったと思われる節がありますね。大神神社のご神体、三輪山は別名、御諸山(みもろやま)と云うそうです。同じ名前を名乗ることは恐れ多いということで、別名をもじって、茂侶神社になったのかも知れません。
しかも、この辺は「三輪野山」って云うんですよ。小さな丘のような山があります。
移住当時、故郷の「三輪山」を思い起こしていたんですかね。大国主命が祀られていることから、流山の人の起源は出雲系かもね。
※追記:大神神社は奈良県桜井市にある大和國の一之宮です。巨大な大鳥居が有名な神社です。「神様に呼ばれないとたどり着けない神社」と言われています。
こちらは「式内社茂侶神社」と書かれています。
■流鉄を利用して輪行で帰る
さて、体力も知力もいっぱいいっぱいです。お家へ帰りましょう。
この辺には「流鉄」が通っているので、輪行で帰ることにします。
「幸谷」まで乗って「JR新松戸」で武蔵野線に乗り換えです。
流鉄開業100周年記念コラボ『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』の看板みたい。実際のコラボは2015年~2016年のことなので、ずいぶん、引っ張ってますね。おじさんにはようわからん。
※追記:『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』とはアニメで、町おこしアイドル「流川ガールズ」の物語。架空都市、流川市をピーアールする為に誕生した女子高生ローカルアイドル(ロコドル)らしい。舞台の流川市は流山市をモデルにしている。登場人物の苗字が流山市や近辺の地名が使われている。流山市の街並みも作中描写されているらしい。
久々に「輪行」です。
折り返しの電車に乗ります。
2両編成で赤と黄色の車両が繋がっているので「オムライストレイン」と言うそうです。車両不足で仕方なく違う車両を繋いだことが功を奏したそうです。美味しく頂きました!!
自転車片道:48km
流鉄(流山-幸谷):170円