2022年12月27日(火)
本日は「下総国分寺」にお参りです。年始の人ごみのお参りが苦手なので、静かな年末の内に済ませます。国分寺について改めて調べてみました。
国分寺は奈良時代、聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって国分僧寺と国分尼寺が各国に国家鎮護のために建立されました。
聖武天皇の時代には疫病、地震、反乱、海外からの脅威に見舞われていました。聖武天皇は国家を安定させるために仏教の力を借りました。
しかし、律令制度が崩壊すると、官からの援助もなくなり、各国の国分寺は衰退していきました。「下総国分尼寺」は廃寺となり、「下総国分僧寺」も真言宗豊山派の「下総国分寺」となっています。
お寺の名前は残っていても当時のものは遺跡としてしか残っていないのですね。
【広域地図】
【詳細地図】
疫病、戦争、海外からの脅威を早く解決してくれるようにお参りいたしました。
この不安で不確かな時代を何とかしてほしい。
「下総国分僧寺」時代の金堂、講堂、七重塔の位置が朱色で示されています。
■下総国分僧寺跡
「下総国分寺」の駐車場のところに看板があります。「下総国分僧寺」があったことを説明しています。現在の「下総国分寺」とほぼ同じ場所にあって、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・七重塔・講堂が建てられていたそうです。
■下総国分寺跡跡石碑
場所は「下総国分寺」の墓地の先に広がる広場です。元は「下総国分僧寺」の敷地内で、掘立柱建物跡や遺物が発見されたそうです。この地には大衆院(寺の運営管理を行う役所的な施設)、向かい側の空き地には僧坊(僧侶が生活を送る居住空間)があったとされています。
■下総国分尼寺跡公園
「下総国分尼寺」は廃寺となり、遺跡として発掘され、公園となっています。公園には基壇が4か所あり、柱を支えてきた基礎の石になります。4か所の基壇の中心に「金堂跡」のモニュメントがあります。
自転車往復:20km