2021年11月23日(火)(祝日)
今日は鎌ヶ谷市に行った。
まずは聖地巡礼!!
世界のおーたにさーん、BIG BOSS!! SHINJYOのゆかりの地。
中には入れないので外から撮影です。
■初富稲荷神社
でも、本当の目的はこちら。
イチョウが色づいてとてもキレイです。
■初富開墾
さて、何があったのでしょう。
看板の文字を起こしてみます。
「初富開墾関連資料
明治時代になり、新政府は、東京で窮民となった武士や町人らに対して、その対策と首都の治安維持を目的として、房総北部にあった旧江戸幕府の牧を開墾することを計画しました。鎌ヶ谷市の「初富」という地名は、その最初の開墾地ということと、開墾地が豊かになるように祈りを込めて付けられた名称です。
そして、政府が設置した開墾局と開墾を請け負った開墾会社の監督のもと、東京から入植した窮民らによって開墾事業は進められていきました。
しかし、開墾人たちの生活は大変厳しく、3年間保障されるはずだった食料の配分は次第に支給量を減らされました。
また、毎年のように来る台風で農作物や住居も大きな被害を受け、病気等で多くの大人や子どもが亡くなるなど苦労の絶えないものでした。こうした状況の中でも、近隣の粟野村の人々が相撲興行を初富稲荷神社で行うなどして励ましたり、開墾人同士で農業の学習を行うなどして支え合って生活していました。
一方、事業は開墾会社の解散により、明治5年(1872)に終焉を迎えますが、開墾人たちが与えられた土地以外の開墾地の多くは開墾会社社員に分配されてしまい、この土地の所有権を巡って両者の間で裁判も起こっています。
市内には前述の土地の所有権を巡る裁判記録など、開墾事業の様子やその後の状況を伝える歴史資料が多数残っています。いずれも初富開墾の歴史を知る上で欠かさせない資料であることから、市の指定文化財に指定されました。
令和2年11月 鎌ヶ谷市教育委員会」
元々は、徳川幕府の軍馬の養成場(小金牧)としてあった巨大な牧場を開墾地として、徳川幕府の崩壊とともに無職になった人々を受け入れた場所だそうです。
しかし、本文にもあるように明治政府の無策により、開墾事業は請負会社に利用され、開墾人には土地の権利さえ得られない状態となっていたそうです。
それでも、開墾人たちは自分たちで開墾した最初の土地を「初富」と名付けました。
それから、開墾して広げていった土地に願いを込めて、漢数字を地名に埋め込みました。
1.初富(はつとみ)(中野牧・鎌ケ谷)
2.二和(ふたわ)(下野牧・船橋)
3.三咲(みさき)(下野牧・船橋)
4.豊四季(とよしき)(上野牧・柏)
5.五香(ごこう)(中野牧・松戸)
6.六実(むつみ)(中野牧・松戸)
7.七栄(ななえ)(内野牧・富里)
8.八街(やちまた)(柳沢牧・八街)
9.九美上(くみあげ)(油田牧・香取)
10.十倉(とくら)(高野牧・富里)
11.十余一(とよいち)(印西牧・白井)
12.十余二(とよふた)(高田台牧・柏)
13.十余三(とよみ)(矢作牧・成田および多古)
「初富開墾百ヶ年記念碑」です。
「初富」が事の始まりなのです。
自転車:33kmです。