街の小さな移ろいに気付きたい

『還暦ライダー』の生存確認日記

船橋での太宰治ゆかりの地を周る「船橋駅前周辺」

2023年8月25日(金)

太宰治と言えば、長年暮らしたのが東京都三鷹市であったので三鷹のイメージが強いが、船橋で生活していた時期(1年3か月)もあります。船橋市民でも知らない人は多いでしょうね。Wikipediaにすら記述されていません。そんなあまり知られていない船橋での太宰治の生活を追ってみたいと思います。

【地図】

太宰治旧宅跡

太宰治の旧宅は既に取り壊されており、記念の碑だけが建っています。太宰にとっては借家でしたが思い入れ深い家だったようです。

太宰治船橋に移り住む頃の状況は下記のようでした。
昭和10年(1935年)
都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。
3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。
4月、腹膜炎の手術を受ける。鎮痛剤パビナールの注射を受け依存症となる。
7月1日   、療養のため船橋に転居。
9月30日、学費未納のため東京大学を除籍。

昭和11年(1936年)
6月21日、最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行。
10月13日、パピナール依存症が酷くなり東京武蔵野病院に強制入院。

太宰治の碑(九重橋)

海老川に架かる九重橋に太宰治の碑が建てられています。このモニュメントは「海老川十三橋」の一つです。太宰治の旧宅と近い橋だったのでモニュメントが建てられたのでしょう。

橋の欄干には太宰治が書いた小説を題材にしたレリーフが埋め込まれています。

「斜陽」のレリーフです。他にも「人間失格」、「もの思ふ葦」、「津軽」、「地球図」、「富嶽百景」があります。

走れメロス」の一節が書かれたモニュメントが欄干の上に建てられています。

太宰治の旧宅の方向です。この細い道を当時としては長身(175cm)の太宰治が着流しで歩いてくると思うとゾクッとしますね。

■川奈部薬局

新しく建て替えられていますが、屋号はそのままです。太宰治の家から徒歩で7分程度のところ。この近所に治療に通った病院もあったのですが、既に廃業して無くなっています。明治創業の老舗薬局です。パピナール依存症からは逃れられなかったようです。

■御蔵稲荷神社

太宰治船橋居住時代に短編集「晩年」を砂子屋書房から刊行しました。書籍の口絵をこの御蔵稲荷神社で撮影したものを使用したらしいです。

碑には太宰治について次のように記されている「昭和初期の文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲荷を背景に使っている。」

短編集「晩年」の口絵に使用された写真。狛狐が写っています。現在の狛狐は平成七年に新たに建立されたので、写真のものとは異なります。(左:「晩年」の口絵写真)

■御殿通り

この辺りは元々、徳川家の船橋御殿があったところです。徳川家康・秀忠が東金に鷹狩に行く際には船橋御殿でお泊りになったということです。船橋御殿の前の通りを御殿通りと呼んでいます。現在は古い街並みが消えてしまいましたが、長く江戸時代の街並みが残っていたものと思われます。太宰治もその街並みを好んだのではないでしょうか。おいらも整備された本町通りよりも御蔵稲荷神社の赤い鳥居につられてふらりと御殿通りを歩くことがあります。

御殿通りの正式な看板が見当たらない。以前から探しているのだが...

●つるや伊藤

御殿通りから少し入ったところにあります。創業170年の老舗です。染物、着物洗い、旗・幕、祭用品、舞台設備等を扱っています。昔はこういった建物が御殿通りに連なっていたのではないでしょうか。

東照宮船橋御殿跡)

船橋御殿の跡地に日本一小さい東照宮が建立されています。

三猿もちゃんと鎮座しています。

太宰治の植えた夾竹桃

船橋市中央公民館の前の広場に太宰治が借家に植えていた「夾竹桃」が移植されています。

ちょっと、読みにくいので文字おこしします。

太宰治「十五年間」より
「たのむ!もう一晩この家に寝かせて下さい。玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ。庭の青桐も僕が植えたのだ。と或る人にたのんで手放しで泣いてしま つたのを忘れていない。」

※パビナール依存が酷くなり、妻の初代が太宰の師である井伏鱒二に泣きつき、東京武蔵野病院に強制入院させたそうです。

夾竹桃

夾竹桃は6月から9月まで花を咲かせます。根、葉、茎、花 など樹木全体に毒性を持っており、口に含むなどすると吐き気、嘔吐、下痢、めまい、腹痛などの症状がおこることがあります。太宰治夾竹桃のどこに心惹かれたんでしょうか。

■玉川旅館跡

玉川旅館は2020年4月30日に閉業しました。船橋に住んでいた太宰治が「桔梗(ききょう)の間」に20日間ほど滞在し、小説を執筆しました。しかし、費用を払えなかったため、当時の女将(おかみ)が本や万年筆をカタとしてもらってお引き取り願ったそうです。前期の傑作「ダス・ゲマイネ」「虚構の春」「狂言の神」の作品がここで書かれました。

[玉川旅館の歴史と記憶がまとめられています、太宰治の記録も残っています]

[船橋市による玉川旅館の調査報告です]

[2019年当時の玉川旅館(Google Map)]

新聞社の記事を引用しようと思いましたが、新聞社の記事はリンク先がなくなったりするので、Google Mapの過去写真を使用しました。

●お金のない太宰治がなぜ玉川旅館に泊まったのか

女将によると「ご実家の斜陽館とこの建物が似ているということで、懐かしくていらしたという話を頂いたようです。」たしかに、建物の形状や色合いがそっくりですね。だからこそ、船橋の家に愛着があるのでしょうか。

[太宰治の実家「斜陽館」のホームページです]

●玉川旅館跡地に建ったマンション

玉川旅館の跡地にはマンションが建っており新しい人々の生活が始まっています。

●湊町2丁目3号公園

マンションの裏手に小さな公園があります。そこに「玉川旅館」が建っていた旨を知らせる説明板があります。玉川旅館が歴史から消されてなくてよかった。

自転車往復:20km