街の小さな移ろいに気付きたい

『還暦ライダー』の生存確認日記

意富比って何?「意富比神社(船橋)」-「大井神社(水戸)」

2024年4月28日(日)、29日(月・祝)

船橋市船橋大神宮と呼ばれる意富比神社がある。かつて、日本武尊が東征のおりに船橋を訪れ、旱天に苦しんでいた住民のために祈願し、雨を降らせたことが始まり。その後、日本武尊の父である景行天皇がこの地を訪れ「意富比神社」の名を賜ったとのことです。

だが何故、意富比神社なんだ?日本武尊神社ではいけなかったのか?そもそも、意富比(オオヒ)ってどういう意味なんだ。そんな疑問を以前から持っていたので追ってみた。

【地図:意富比神社(船橋)】

【地図:大井神社(水戸)】

■意富比神社(船橋大神宮)

船橋市の宮本に神社はあります。JR船橋駅から歩いて行ける場所にあります。地元では船橋大神宮と呼ばれていますが、正式な名称は意富比(オオヒ)神社です。

主祭神は天照皇大神です。社号標には「意富比」の文字はありません。

この神社には「外宮:豊受姫神社」があります。お参りは外宮からでしたね。

意富比神社の拝殿になります。

拝殿の額の文字は消えて判らなくなっていますが「延喜式内意富比大神宮」と書かれています。

石板には「船橋大神宮(意富比神社)由緒」と書かれている。

はてさて、意富比の意味とは何なんでしょうか?

茨城県水戸市(JR水戸駅

意富比の意味を探るために茨城県水戸市までやってきました。JR水戸駅には初めて下車します。

北口はバスターミナルになっています。ここからバスに乗って行きます。茨城交通バスは交通系ICカードが使えませーん。ビックリです。

おいらのライバル水戸の黄門様にご挨拶。史跡巡りに赴くと必ず、このオヤジがやらかしてくれてます。八幡の藪知らずの禁足地に入ったり、鹿島神宮の要石を掘り起こしたり、日本武尊が埋めたとされる船を掘り起こしたり...けっこうやってくれてます。

■大井神社

茨城交通バスで周囲が田んぼの中にポツンとある神社です。たぶん、古墳かと思います。周りにお店とかないので千円以下の現金がないと帰りのバスに乗れません。

今回はこの由緒書を確認しに来たといっても過言ではありません。崇神天皇の頃、東国平定のために肥の国(現在の佐賀熊本)から意富臣の建借間命(タケカシマノミコト)が任ぜられ、那珂川流域一帯を切り開き、朝廷から那賀(仲)国造に任命されました。

意富(オオ)氏は「多」「太」「大」「飯富」「於保」とも書きます。昔は音に漢字を当てはめていたので同じ一族でも姓の漢字が異なることがあります。古事記を編纂した太安万侶(オオノヤスマロ)もこの一族の出身です。

建借間命の伝承は「常陸国風土記」の中で語られています。日本武尊の東征と建借間命の平定の道程は一致しています。もしかしたら、建借間命の東国平定の話を日本武尊の東征の話に置き換えようとしたのかも。何で...でも何かワクワクすっぞ。

佐賀県茨城県に「かしま」という地名があるのも偶然ではないようです。

大井神社はもと、意冨比神社であったとのこと。神社名には元宮と同じ名を名乗ることは憚れるため、文字を変えることがよくあります。大井神社の意冨比の冨には点がありません。

ここにも水戸光圀は来ているようです。でも、石段の奉納という良いことをしています。

●手水舎

「手水の仕方」の案内図の画力がただモノではない感じがしたので左鳥右人さんを調べてみました。茨城県の市町村擬人化のイラストを作成している人だそうです。

●意富比辯財天巽神社

ここの神社の名前は一族意富臣の「意富比」が使われてます。

ついに、茨城県まで手を付けてしまいました。この先が大変だ。