2021年10月10日(日)
■輪行に挑戦しました
初めての「輪行」です。
乗り換え駅の北総線新松戸駅です。乗り継ぎ時間があったので写真撮りました。
行き先は「印旛日本医大駅」です。
「印旛日本医大駅」に付きました。駅内の駅名表示には(松虫姫)と付いています。
駅内の表示だけ(松虫姫)が付いています。
当初、駅名は仮称として「印旛松虫」としていたらしい。
そのくらい、地元民には親しみのある名称なのでしょう。
いつも、下車しないけれど気になっていました。
駅舎は円錐のドーム型になっており、とても芸術的です。
■雨が降ってた
せっかく、来たのに雨が降ってました。
一日、晴れのはずだったのに...
「雨雲レーダー」見ると通り雨みたいなので、しばらく、様子見です。
でも、駅前に、喫茶店もコンビニもないんだよね。
雨がやんだので、自転車組み立てて準備万端。
■松虫姫公園へ行く
駅の南側にある「松虫姫公園」です。
後述の「牛むぐりの池」の辺りが公園になったようです。でも、目的はここではありません。松虫姫が祀られた「松虫寺」です。
松虫姫と奈良の都より乗ってきた牛の姿がモチーフです。
モニュメントの文字を書き写します。
松虫姫物語
「むかしむかし、奈良の都に、松虫姫というお方がありました。大変美しい姫でしたが、ある時、重い病にかかってしまいました。
皆が困っていると、ある夜、姫の夢の中に白髪の老人が現れて、「私は下総の国。萩原の薬師如来の使者です。お姫様が萩原の里の薬師堂でお祈りになれば、そのご病気は必ず治るでしょう。」と告げました。
姫がこのことを帝に話しますと、当時の名僧。行基僧正のすすめもあり、姫は下総の国に行くことになりました。当時、都から下総の国まで旅をするのは大変なことでした。姫は牛の背に乗り、行基僧正、乳母の杉自、警護として武者の権の太夫、他には数人のお供を連れただけで、長い旅に出ました。
旅の途中でのことです。遠州(静岡県)の山の中で山賊に襲われました。すると、忠義な牛が権の太夫を助けて猛然と暴れだし、山賊を角で突き殺してしまいました。箱根越えの時には大蛇に道をふさがれましたが、辛うじて権の太夫がこれを退治しました。
やがて、一行は印旛沼のほとりに着きました。沼を渡れば萩原の里はもうすぐです。けれど舟がなくて渡ることができません。行基僧正は岸辺に座って一心にお祈りを捧げました。すると沼の水が引いて土が浮き上がったのです。一行はそこを渡って向う岸に辿り着くことができました。以来、この土地の名を『土浮』というようになりました。
いよいよ萩原出戸の里です。道の傍らにきれいな池があったので、皆はそこで旅の埃を洗い清め、薬師堂を訪れました。姫はお堂にこもってお祈りを始めました。行基僧正は木を切って仏像の彫刻を始めました。乳母の杉自は村人たちを集めて、養蚕と機織の技術を教えました。
こうして数年経ちました。姫の病気はきれいに治っており、皆はたいそう喜びました。都に帰ることになりましたが、姫は帝に早く病気が治ったことを知らせたく、馬で都に帰ることになりました。それを知った牛は悲しみ、出発の前の晩に、あの体を清めた池に身を投げて死んでしまいました。その時から、この池は『牛むぐりの池』と呼ばれるようになりました。乳母の杉自も「私も年をとって都までは帰れそうにありません。この土地の人になりたいと思います。」と姫の許しを得て村に残ることになりました。
姫が亡くなると、お骨の半分は薬師堂の裏へ葬られました。そして、帝の命により寺が建てられ、姫の名にちなんで『松虫寺』と名付けられました。
姫が都から持ってきたという銀杏の木の杖は、地面に差すとそのまま根付いて、大きな銀杏の木になりました。この木は『お杖銀杏』と呼ばれています。
帝とは聖武天皇のことです。奈良時代に、都で疫病と災害に悩まされたために東大寺の大仏の建立を計画しました。
行基僧正は全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めたと云われています。
実在の人物です。
公園内に「牛むぐりの池」もあるのですが、トラブル発生(雨で滑って転けました)で、公園は早めに退散です。
■松虫寺
松虫寺です。
千葉県印西市松虫7
聖武天皇が行基僧正に命じて創建させたとか。松虫姫の遺骨が分納されているそうです。
山門と仁王像です。運慶作らしい。
雨上がりだったので、苔むした境内が鮮やかな緑でした。
雨が降ったお陰で写真がキレイ。
古いお寺ですが、趣があります。今の時期が一番良い時期かもしれません。
■乳母の杉自の塚
乳母の杉自の塚です。
松虫寺から、少し離れた場所にあります。
後から木が生えたんでしょうかね。塚の上に大木が生えています。
年老いた杉自は下総に残ることを選び、都の技術を里人に伝え、慕われたと言われています。
松虫姫が不治の病を癒した土地に大学病院が建てられたのも何かの因縁かな。
「みやこびと」と「里人」が争うことなく、暮らしているという当時の歴史背景も表しているのかもしれません。
自転車:17km
でした。